東日本大震災での経験
     市民研究員  山本 修巳(2011:4:2)
 2011年3月11日 PM2時46分1,000年に一度という揺れが突如発生し、2時間30分後には大津波が襲うという"未曾有の経験"をしてしまった。
 小生は1995年の「阪神・淡路大震災」では、地震発生3日後には、現地に赴き、テントの仮設・食糧の配達・救援物資の分別等々を半年間にわたりボランティア活動に従事しました。
 今回は小生の従兄との連絡が取れず【現場】に行くのみと考え、ボーイスカウトでの経験から必要と思われる個人装備を準備し、日本海経由で青森迄行きその後は使える公共交通を利用し更にヒッチハイクしながら「石巻」迄、前進しました。先ず眼にした≪光景≫は、阪神・淡路大震災とは大きく異なり怖くなったのが真実です。(此の時点で小生の頭の中はパニクッタ状態になって居ました。)
 先ずは避難所を4ケ所回りましたが、従兄は探
し出せませんでした。こんなときは、原点に戻ることだと判断し、住所をたよりに、瓦礫の山を歩きながら(此の時は 軽アイゼン・羊の手袋等々の準備が役立った)従兄宅に向かいました。従兄の傾いた家が見え、安否確認が出来た歓びは、70年の人生の中でもとりわけ感激
 
 
 
ひとしおでした。先ずは、傾いた家屋の一部に生活空間を作り、(此の時もロープの事前準備が良かった)寒さ対策の服等を部屋に集め、後は救援を待つ事にして、一旦帰阪しました。
 再び公共交通機関回復?後、石巻を訪問しました。前回できなかった家だけでも修復すべく、ボランティア達の手を借りながら、作業を進め一応住める体制は出来ました。
 帰阪時に災害状況をみていて、瓦礫に埋もれる街、木片・コンクリートの瓦礫・家具等々の残骸の置き場・焼却が間に合わない現実に心をいためました。発生した廃棄物は宮城県だけでも1,500万t〜1,800万t以上は在るのでは無いかということです。此の値は 宮城県の23年分の廃棄物と解りこれ等の処分は、如何に行うのか心配になりました。また、私の現状分析では我が国の司令塔が混乱して機能していないと感じますので、早急にステップを踏んで新しい街造りのグランドデザインの作成が必要と思います。
  被災現場に立ちすくむ
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